「一方的な報道による誤解を解きたい」――堀江貴文氏の逮捕後初の会見を(ほぼ)完全収録 (1/6)【ITmedia】
堀江 僕はこの3年間でよく分かったことなのですが、検察官は費用対効果をものすごく大事にする人たちなのです。司法ではなくて、非常に経済的な原則に従って動いています。東京地検特捜部の検事は事務官合わせて150人もいないのかな、検事は50何人とか非常に小さな組織、会社で言えば中小企業(です)。
だから、(捜査する)事件を選ぶのです。「経済事件だったらライブドアの堀江をやれば最大限の効果が上がる」「小沢さんの秘書をやれば政治的には今、一番注目を浴びる」と(考えたのでしょう)。注目を浴びたら出世できますよね。特にライブドアのような経済事件をやると、多くの会社は恐怖に震えて、検察庁にいたOBたちをたくさんお金を払って雇うことでしょう。
逮捕されるずっと前から「ホリエモン嫌い」と公言し続けていた私だが、検察に対する見解だけは、全く、完全に同意する。検察の独善性というのは見るに耐えない。しかも悪いことには、反保守的な者を優先的に狙っていることが明らかで、しかもしれは検察官個人の思想が多分に反映されているようなのだ。
例えば小沢代表秘書の逮捕事件。
“検察内クーデター”説も出た西松建設事件【日経BPネット】
彼は、「もしも検察ファッショならば、もっとバランスのとれたやり方をするはずである。これは、検察上部の慎重さ、あるいは臆病さに苛立った、現役検事たちのクーデターではないのか」と言っていた。
そして奇しくもこの構図は、ライブドア事件でも全く同じだったようだ。堀江氏はこう語っている。
検察官というのは1人1人単独で動くのですが、私のことを捜査していた人も最初は1人だったらしいのです。すでに検察庁を辞めている北島さんという検事さんらしいのですが、彼が1人でやっていたと(いうことです)。つまり北島という検察官が「堀江をやりたい」と(思って)、堀江のネタを集めるために「お前知らねえか」と例えば新聞社の司法記者に聞くと、「ああそれだったら、堀江のネタこんなのありますよ」と情報提供する人がいて、「これはやれそうだな」と思ったらそれを1人で徹底的に調べていくという手法でたぶんやっているんだと思います。
どうだろう?検察というのはテキトー動機で起訴を行っているのかもしれない。まぁ、それでも組織の中で(要は上司の)チェック機能が働いていればいいが、西松事件のクーデター説などを信じるとすれば、組織としてのチェック機能すら働いていないと思われる。
さらには、平和神軍観察会事件などでは、本来は不起訴相当事案と評されるものを起訴に持ち込み、問題を拡大させている。一審の無罪の件も結局のところ、裁判官が「この事案は無罪だろう」とうのを苦心の末、判決文に反映させたら画期的な判決として世間の話題になってしまっただけのことだ。
右翼集団?である日本平和神軍に楯突いた一個人に対して、冷静に見れば不起訴処分相当の事案であったものを、刑事告訴に持ち込み、結果として議論を呼ぶ判決を出さざるを得ない状況にしてしまったわけだ。ちなみに紀藤弁護士はこれを指して「テストケースとしての起訴」と呼んでいる。要は「有罪かどうかよく分からないので試してみよう」ということだ。それで逮捕される方はたまったモノではない。通常の社会人は、逮捕されるだけで、社会人としては終わったも同じである。
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ちなみに、検察の犯罪不祥事は数多いが、検察官が逮捕されることは極めて稀である。もちろん起訴されることはさらに少ない。身内の犯罪は不起訴にするが、他人の犯罪かどうか良く分からない行為に対しては起訴して、全力で有罪にしようとする。検察とはそういう組織だ。
このような腐った官庁は他にいくらでもあるが、一方で対照的な例もある。
同じように他者を調べる権限を持った組織に金融庁がある。彼らは金融機関に対して莫大な権限を持ち、監査は厳しく、金融関係者からは嫌われている。だがしかし、金融庁の裁定に文句を言うものはいない。まず彼らの監査は透明であり、WEB上には処分に至った理由が公開され、誰でもそれを確認できる。また、彼ら自身も不祥事を起こしているが、それらは正しく処分が行われ、その経緯もWEB上に公開されている。隠し事はない。
そして何より、金融庁の職員は全て「日本の金融機関を健全にする」という使命を共有しており、そのためにだけ行動している。正しい使命に基づく監査というのは、反論するのは容易ではない。出来る反論は「何もそこまでしなくても・・・・」というくらいのもので、実際反論にすらないので従わざるを得ない。
だが、検察はどうだろうか?もし、起訴に対する反論が、「何もそこまで法律に厳密に従わなくても・・・・」のような反論であれば、ここまで騒動にならない。こんなに反論を許すはずがないのだ。
端的に言えば、使命が正しくないから、容易に反論を許す。個人的に気に入らないヤツを訴えようとがんばってみたり、今後のテストケースのために訴えてみたり、自分の嫌いな政党を痛めつけようと訴えてみたり――。検察というのは意外なほどに個人プレートということは先に書いたとおりだが、その弊害が極大化していると考えるべきだろう。個人の中でしか通用しない使命感に基づいて、まぁようは独善的に、起訴を行っているということだ。
矮小な使命による行動は、より大きな使命による行動に打ち負かされる。それが社会の大原則だ。そして、これまでの検察の例を見ると――、あまりたいしたことのない使命にすら、敗北している。よほど矮小な使命に基づいて行動しているのだろう。
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ちなみに資本主義社会においては、使命の正しさや大きさを評価するスキームは不完全ながらある。堀江氏の主張ではないが、使命が正しければ人々の支持を受け、お金も集まる(儲かる)という構造だ。ただし、逆は真ではない。お金が儲かっているからといって、使命が正しいとは限らない。単にお金を目的とすれば、正しい使命に基づかなくてもお金を稼ぐ方法はいくらでもあるからだ。
そういうヤツらの中でも特に悪質なヤツを痛めつけるのは、検察の使命の一つなのだろうと私は理解している。もし単に「法を守ること。それを守ること」だけが目的なのであれば、今のような巨大な権限は不要なので、即刻権限を削減すべきだ。起訴のプロセスも透明化し、検察を監視しなければならない。警察に対しても取り調べを可視化しようという議論があるが、それと同じだ。警察と同じくらいに検察も信用できないので、透明化・可視化をする必要があるということだ。
だがそのような議論になっていないところを見れば、世論はまだ検察に「何か」を期待しているのだろう。
今一度、本当に国民の前に立って恥ずかしくない仕事ができているのか、自省してもらいたいものだ。