現代においては、「科学的真理を求める尊さ」に便乗し、「知識こそがすべてに優越する」と思い込んでいる人々が少なからず見られるようになりました。
地動説裁判においては科学的真理の追究が社会の混乱を招く「悪」とされ、地動説を唱える者たちは過酷な迫害を受けました。
現代ではこうした過ちを教訓とし、「社会的倫理を理由に、科学の自由を抑圧することは許されない」という価値観が定着しています。これは当然のことのように思えます。
科学の自由は本当に無条件か?
その背後には、人間の打算も存在します。
科学は人類を進歩させ、より多くの人々を豊かにする。
ゆえに、それを妨げる行為は悪である。
こうした合理的ロジックが、暗黙に働いています。
言い換えれば、科学の進歩がもたらす利益が、宗教が維持する安定や平和を上回ると認識されたとき、初めて人々は打算的に科学の自由を肯定し始めたとも言えるのです。
科学が人類に具体的なメリットをもたらすようになったのは、農業革命以降といえるでしょう。
よって、「科学の真理を尊重する思想」は、実際には農業革命以降に初めて社会的に機能し始めたのです。
科学のメリットが失われたら?
ではもし、科学のもたらす恩恵が、宗教的秩序のもたらす安定よりも小さくなったとしたら──
価値観は反転し、我々は再び農業革命以前、天動説の時代のような閉塞へと回帰するかもしれません。
事実、かつて人類はそうした価値観で長らく社会を築いてきました。その世界観には実績があるのです。
科学の自由は実績に支えられている
科学の自由が無条件に守られているのは、「多数の幸福に資する」という過去の積み重ねられた実績があるからです。
我々の価値観が変わったのは、その結果としての信頼によるものにすぎません。
したがって、こうした信頼を逆手に取り、「科学がもたらす結果は常に正しい」と考えて行動すれば、
かえって科学の信頼を損ない、いずれは地動説弾圧の時代のように、進歩そのものが疑われ、抑圧される未来が訪れるかもしれません。
なぜなら、科学が人類にマイナスをもたらすならば、進歩を捨ててでも閉塞した安定を選ぶという選択肢は、
少なくとも多数派にとっては合理的な判断となる可能性があるからです。
マイナスからゼロへの回復も、また改善なのです。
科学には責任が伴う
そのような事態を避けるためにこそ、現代社会では
「科学の探究は無条件に認めるが、その実行と責任は別である」
というモラルが求められています。
たとえばAIや遺伝子操作への懸念も、まさにその延長線上にあります。
研究そのものは容認される一方で、その社会的応用に際しては高度な結果責任が求められ、活発な議論が繰り返されています。
ところが現実には、そうした「結果責任」の重みを忘れ、
科学的真理によってすべてを正当化できると信じる者が後を絶ちません。
真理を語る資格とは
科学の根本的な道徳――つまり、「自由には責任が伴う」という理念を無視する者は、
本当に科学的思考に基づいているといえるでしょうか。
真理を口実に知識を弄び、あたかも自らが真理の代弁者であるかのように振る舞う者こそ、最も非科学的で欺瞞に満ちた存在です。